2007-05-22

語ることと示すこと

命題は記述されるべき事実の経験的内容についてなら「語る」ことができる。しかし、その形式的構造、すなわち論理形式については「示す」ことしかできない。
ウィトゲンシュタインはアスペクト知覚において、われわれは対象の色や形についてなら「語る」ことはできるけれども、他方それに内在する有機的体制については「示す」ことしかできないと指摘している。
事例として、アスペクトの転換に際し、それまでは模写ができてしまえば無用の説明と思われ、また実際そうであったものが、可能な唯一の体験表現になってしまうと述べている。
そして、野家啓一はその著書「科学の解釈学」において、R・ペンローズやR・ドーキンスを痛烈に批判している。
曰く、人間の「自由意志」を量子力学的不確定性によって説明する物理学者や、生物界に見られる利他的行動を根拠に「遺伝子の道徳性」を論ずる社会生物学者などのなかに、われわれはまさに20世紀的な「俗悪さ」の一端を嗅ぎ付けることができると。

恢復期

恢復期についてのアンリ・ボスコの覚書は幸福で健康なイマージュに満ちているようだ。
ガストン・バシュラールの「夢想の詩学」にアンリ・ボスコの「ヒヤシンス」という物語のことが書かれている。
すばらしい文章なので、少し長いがそのまま引用する。
わたしは意識を失ってはいなかった。しかしあるときは、生命の最初の供物、つまり外界からやってきた若干の感覚を摂取していたし、またあるときは内面の実体を食物としていた。それは少しずつ蓄積した稀有な実体ではあったが、新しくもたらされたものからは何も負ってはいなかった。というのは、もしわたしの本当の記憶からすべてのことが追放されたとしても、その代わり、想像的な記憶のなかですべてが途方もなく新鮮によみがえるはずだからである。忘却によって不毛になった広大な広がりの真只中で、あのすばらしく楽しい幼少時代、わたしが勝手に作りあげたのだと昔は思っていた幼少時代が、たえまなくずっと光を放っているのだった。・・・というのも、それはわたしの青春なのだった。わたしのもの、わたしの手で作りあげた青春なのだ。苦しみつつたどられた幼少時代が外側から私におしつけたあの青春ではなかった。
そして、バシュラールは出来事のない生を究めようと言っている。平穏な生、出来事のない生にくらべると、あらゆる出来事は精神的外傷となりかねない。出来事はわたしたちのアニマの、内面にあって、夢想の中でしかよく生きられない女性的存在の、自然な平和をかき乱す男性的残忍さとなりかねないのである。
これらは、恢復期が必要としている幼少時代の夢想と一体となることの重要性を正しく指摘している。